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Ikuya Takahashi

戦争について考える一冊。『原民喜 死と愛と孤独の肖像』📚by 梯久美子

『原民喜 死と愛と孤独の肖像』 梯久美子


8月は戦争を考える月だ。広島出身の作家、原民喜の人生を丁寧に説明した一冊。原民喜と言えば、原爆を描いた小説『夏の花』で有名だ。インスタグラムで『夏の花』が世界中で読まれていることに感動を覚えた。大江健三郎は原のことをこう形容している。「若い読者がめぐり会うべき、現代日本文学の、もっとも美しい散文家のひとり」。


この伝記を読み、原民喜という人の繊細さ、優しさに触れた。本書は3部から構成されており、「死の章」、「愛の章」、「孤独の章」という題が付いている。


死について 死は僕を生長させた

愛について 愛は僕を持続させた

孤独について 孤独は僕を僕にした

「鎮魂歌より」


原民喜は幼くして最愛の父と姉を亡くした。生家は繊維商を営んでおり、かなり裕福であったらしい。父親が存命の時には、店に活気が溢れ、温かい雰囲気があったが、それも父親の死と共に消え去る。また、17歳の時には最愛の姉が亡くなる。姉が聖書を熱心に読んでいたことも手伝い、死後の世界を意識し始めるようになる。この頃から原はすでに死者のいる世界に親密さを抱いていたのだろう。


子供の時から極端に内気で無口。学校では先生からも同級生からもいじめられる。体育の時間は特に拷問に等しい時間であったという。それでも文学好きの友人との交流の中で少しは慰められるところがあった。高校卒業後上京し、慶應大学の英文科に入学する。大学では、少数ではあるが、心を許せる友人も出来、共に同人誌に取り組む。原の性格を考えると驚くべきことだが、左翼活動に傾倒していた時期もあったという。ただ、程なくして、挫折、幻滅を味わう事になる。


その詫びしい生活を救ったのは6歳年下の最愛の妻、貞恵であった。「誰からも認められなくとも貞恵は夫の才能を信じることをやめず、家の中を整え、食事や着るものに心を配り、文学に専心できる環境を整えた」。心の底から愛していた妻も結婚6年目にして肺結核に倒れてしまう。そこまで定職にも就かず、金銭面では実家に頼っていたが、遂に中学校の講師の職に就かざるを得なくなる。騒がしい中学生や俗っぽい職員室は原を憂鬱にさせた。彼が最も心を落ち着かせることが出来る場所は病床に伏している妻の横だった。看病むなしく、1944年、原は最愛の妻を失った。


当時船橋に居を構えていたが、戦況が悪化するにつれ、疎開も兼ね広島の長兄の家に身を寄せることになる。そこで1945年8月6日を迎える。原爆後の阿鼻叫喚の風景を目の当たりにして、次のように述懐する。「今、ふと己れが生きていることと、その意味が、はっと私を弾いた。このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた」


その時まで、原は最愛の父、姉、妻がいた死者の世界に身を寄せていたと言っても良いだろう。ただ、この広島での原爆による死者たちが、原に生の意味を与えた。このようにしてあの傑作『夏の花』が誕生する。その後旧友を頼りにもう一度上京し執筆活動をするも、1951年に鉄道自殺を遂げる。三田文学繋がりで懇意であった17歳年下の遠藤周作はフランス留学中にその悲報に接し、次のように述べた。


「原さん。さようなら。僕は生きます。しかし貴方の死は何てきれいなんだ。貴方の生は何てきれいなんだ」


この本を読むと原民喜という作家の繊細な精神について考えさせられる。どこまでも繊細で優しい人であったのだと。原民喜にとって死者の世界は常に身近にあったのであろう。その原の心に無数の惨たらしい死者と共に「生きることの使命感」を植え付けた原子爆弾。


著者の次の意見に同意する。


「発信し、行動し、社会に働きかけていく-たしかにそれは、ペンを持つ人間の一つの役割であろう。作家の自死を美化し、いたずらに持ち上げることも慎まなければならない。だが、私は、本書を著すために原の生涯を追う中で、しゃにむに前に進もうとする終戦直後の社会にあって、悲しみの中にとどまり続け、嘆きを手放さないことを自分に課し続けた原に、純粋さや美しさだけではなく、強靭さを感じるようになっていった」


絶対的な繊細さと優しさの裏に強さを秘めていた原民喜。もう一度『夏の花』を読み返してみようと思う。




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