『やがて哀しき外国語』村上春樹
『やがて哀しき外国語』村上春樹
久しぶりに再読した。これは村上春樹がプリンストンに滞在した時のいわゆるアメリカ滞在記である。ヨーロッパ滞在記である『遠い太鼓』と併せて大好きなエッセイ集である。今日久しぶりに遠出をした折、何か文庫を持って行こうと思い、何故かこの本を手に取った。
「若いうちは時間はいくらでもあるし、未知の言語を習得するのだという熱のようなものもある。そこには知的好奇心があり、何かを征服してやろうという昂まりがある。新しい種類のコミュニケーションに対する期待もある。一種の知的ゲームでさえある。」
このエッセイを初めて読んだのは随分前になるが、この新しい語学習得に対する熱、知的ゲームの件は鮮明に記憶している。新しい言語を習得することで新しい世界が開かれる。言語を体系的に学ぶことは、知的好奇心を大いに満たしてくれる。新天地で中国語を一から学んでいるが、覚えたてのフレーズが台湾人に通じた時の喜びは、外国語を学習する醍醐味を思い出させてくれる。
村上春樹もこのエッセイで書いている通り、外国で暮らすことのメリットのひとつは、「自分が単なる一人の無能力な外国人、よそ者でしかないと実感できること」であろう。コンビニの店員が言っていることも聞き取れず、コーヒーの注文も満足にできない。自分がいかに無力なのかを痛感させられる。ただそれでも、自分が個人として裸の自分で立っているのだという自立している感覚、ひいては、ある種の自由を感じることも事実である。
村上春樹は、40代前半を振り返り、以下のように回想している。
「僕はごく単純にもっといろんな場所が見たかったし、もっといろんな体験がしたかった。もっといろんな人に会いたかったし、もっといろんな新しい可能性を試したかった。」
全く同じ気持ちである。それにしても村上春樹のエッセイは何度読んでも読ませる。
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